このドキュメントはCreative Commons 表示 2.1のもとで公開しています。 情報処理学会誌「情報処理」2010年11月号に掲載された記事は、本記事をもとに、 再編集したものです。
2008年10月にGoogle Booksと米国作家協会との和解が成立したことに伴い,膨 大な書籍がデジタルデータ化されて保存されているという状態が目の前に 突きつけられ,著作権者や出版社に衝撃を与えた.
2009年10月には,AmazonのKindle電子ブックビューアが日本国内からも購入可 能になった.この時点で,北米ではKindle, SONY reader, nook などの電子書 籍ビューアが,成長しながらシェア争いをしていた.
2010年1月に入り,AppleのiPadと,iBookstoreの正式発表があった.また,1月 18日からは,Amazon DTPというセルフ出版サービスが,米国外からも利用でき るようになった.
このような,主にビジネスの世界で立て続けに起こった出来事を受けて,過去 に何度も立ち上がっては失敗した電子書籍ビジネスの試みが,今回こそは成功 するだろうという機運が高まった.電子書籍,電子出版に関しては,2010年に 大きな技術的前進が発生したのではなく,あくまでビジネスとしての動向が主 体である.
著者は,2010年1月にAmazon DTPを用いてKindle用の日本語小説を出版した.現 役作家のオリジナル作品で,日本から発信した小説としては,Kindle Store初 の試みであった(注:ほぼ同時期に漫画家のうめ氏がKindle Storeにて漫画を出版した.).これは出版社などから提案があったものではなく, 完全に著者が個人として行ったことである.その動機については,「材料が目 の前に揃ったことに気づいたから」という一言に集約できる.また,Kindle Storeの後,Smashwordsというアメリカのインディーズ出版社を経由しての販売 も行った.
本稿では,電子書籍出版元年と言われる中での現在の動向について,書き手で ある作家と,著者の本来の生業であるソフトウェア技術者の視点から,実際の 出版経験に基づいて解説を行う.
既に述べたように,電子書籍はもはやビジネスの世界の動きが主体となってお り,情報技術者が新たに貢献できる範囲は限定されるというのが著者の認識で ある.一方で,書籍フォーマットの標準化や,書籍という大規模な情報の管理 技術の実用化など,未解決の重要な問題も多数残っている.
おそらく原稿執筆時点から掲載までの間に,いくつもの予測不能な変化が起こっ ているであろう.その点については,あらかじめご容赦願いたい.とはいえ, 現時点の瞬間の状況を切り取って記述して,保存しておくことには,なにがし かの意義があると考えている.
しかしこれらの国内の試みは,ビジネスとしてはいずれも失敗に終わっている. この原因について議論は,本稿の趣旨からは外れるので割愛するが,電子書籍 が海外ベンダーによってのみ生み出されたものではない点は強調しておく.
本章では,電子書籍フォーマットと端末のうち,主なものについて概観する.
EPUBは以下の3つの仕様から構成される.
EPUB 2.0のドキュメント本体は,XHTML 1.1とCSS2がベースとなっている.フォ ントの埋め込みにも対応している.仕様では,電子署名やDRMにも言及されては いるが,実装依存となっている.
現状のEPUB 2.0では,縦書きやルビなどの,日本語組版で一般で用いられてい る属性に対応していない.
XMDFは原稿として提供するフォーマット,中間フォーマット,配信フォーマッ トが多段になっているという特徴がある.XMDFは,IEC 62448として標準化され ている.規格書の入手は有償であると同時に,配信フォーマットへの変換ソフ トの利用にはライセンス料が発生する.
2010年8月には,キリル文字,日本語,中国語(繁体字と簡体字),韓国語の表 示に対応した新しいKindleが発売された.
しかし現状のEPUB 2.0では,日本語,中国語などの「書籍の組版」のためには 仕様が不十分である.例えば,縦書き,ルビ,傍点,縦中横,禁則処理が規定 されていない.縦書きから横書きへフォールバックする際の,CSSの扱いについ ても課題がある.
2010年4月にJEPAから,EPUB日本語対応の最小要求仕様が出され,これを元に国 際化などを含めたEPUB 2.1が策定される予定であった.しかし2010年8月に, EPUB 2.1というバージョン番号はキャンセルされ,国際化やリッチメディアな ども含めてEPUB 3.0として策定されるという声明が出された.だが幸いなこと に,計画に遅れが発生するとはなく,2011年5月頃をめどに策定するとの声明も 同時に出ている.
EPUBの国際化に関しては,特に日中韓の関係者が密接に会合を持ち意見交換を 行っており,細かな仕様の方針について合意ができつつあるという.ISO/IEC JTC1/SC34の中に,EPUBの国際化を検討するアドホックグループが作成され, 2011年3月のSC34プラハ総会にて今後の方向性が提案される見込みである.
また,「日本の電子書籍」と称した場合に,いわゆるケータイコンテンツは市 場としては無視できない規模ではあるが,現在議論になっている電子書籍の文 脈からは外れるため,本稿からは除外する.
2010年8月現在,電子書籍の流通について,国内で大きく3つのアライアンスが 表明されている.
大日本印刷と凸版印刷の両社は協調路線を取っており,両者が発起人となった 「電子出版制作・流通協議会」にて,後述する「中間フォーマット」の標準化 などを行う方針を表明している.
出版社側のアライアンスとしては,「電子書籍を考える出版社の会」および, 「日本電子書籍出版社協会(電書協)」が設立されている.
一方,行政の対応としては,総務省,文部科学省,経済産業省の三省が合同で, 「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」 (通称三省デジ懇)を開催した.この会は2010年3月10日に発足し,同年6月 28日に報告書をまとめ,公開した.
報告書では,現状の分析に始まり,電子形式の出版物の利活用の在り方と解決 するべき課題を網羅的に述べている.検討課題はアクセシビリティや図書館の ありかたに及んでおり,国内での電子書籍および電子出版の展開を論じる際に は,議論の叩き台として一読の価値がある.
しかし,そもそも冒頭にて「出版物」「出版文化」が定義されておらず,継承 するべき「日本の豊かな出版文化」というのが何をもって豊かであるかについ て論じられていない.
報告書では,様々な端末に向けて出版物を提供しやすくするために,「中間 フォーマット」の確立が求められるとされている.この中間フォーマットは, XMDFとドットブック・フォーマットを包括し拡張したものを用いることで,出 版社や印刷会社からの賛同を得ているとされている.
同時に報告書では,中間フォーマットは「ロイヤリティーフリーであることが 望ましい」と記載されているが,前述のようにXMDFは規格の入手も有償であり 変換ソフトウェアにライセンス料がかかるという懸念点がある.中間フォーマッ トは,今後「電子出版日本語フォーマット統一規格会議(仮)」にて検討・実証 を行うとされており,2010年8月27日に総務省より統一規格会議の運営事業を含 めた「新ICT利活用サービス創出支援事業」に関する提案の公募が公示された.
原稿として利用可能なフォーマットは,Zip圧縮したHTML,MS-Word,EPUB, PDF,Plain Textである.ISBNを取得していない書籍であっても,ASIN(Amazon 独自の通し番号)が割り当てられる.
登録した書籍は,Amazon DTPによるレビューを経て,Kindle Storeに並ぶ.
著者がAmazon DTPにて日本語書籍を販売した時点では,Kindleは日本語表示に 対応していなかった.そこで著者は,組版した後にすべてのページを画像デー タに変換し,画像つきHTMLのかたちでアップロードした.この結果,文庫本一 冊分(約240ページ)のデータは13MBほどになった.Kindle Storeで販売する場合, データの大きさに応じて最低価格が決まる.10MBを越える書籍は最低価格が $2.99になり,米国外からダウンロードするためには通信料を充当するために $2.00が上乗せされた販売価格になる.
Kindle Storeでは,執筆者へのロイヤリティは,書籍価格の35%である.しかし 米国外の執筆者への支払いは小切手になり,日本で換金する際には1件につき 1000円から数千円の手数料がかかる.価格や売上を試算する場合には,この点 を考慮に入れておく必要がある.
原稿フォーマットとしてMS-Word形式のファイルをアップロードすると,EPUB, mobi,PRC,PDF,HTMLなどに変換して販売する.日本語の原稿であっても正しく 変換する.ただし,縦書きなどには対応していない.Smashwordsを経由して ISBNを取得することも可能である.
書籍の販売価格は無料にも設定できる.ロイヤリティはSmashwordsのサイト からの直接販売の場合は85%だが,提携販売チャンネルの経由すると65%程度 になる.
Smashwordsのようにオンラインで入稿し販売できるサービスが国内でないかと, 2010年4月の時点で著者が探した範囲では,結局同人誌のオンライン販売と,そ の委託販売をしているオンライン書店という組み合わせしか見つからなかった.
しかしその後,株式会社paperboy&co.が提供するパブー[3]のような,オンライ ンで入稿し,EPUBやPDFを販売できるサービスが現れた.しかしパブーはISBNの 取得代行などは行っておらず,そこで販売されている「書籍」と「同人誌」と の境界はあいまいである.
とはいえ,このようなサービスが従来の出版社とは別の枠組みで立ち上がりつ つあるということは,出版社という組織の機能要件を改めて考える契機となる だろう.
執筆者と編集者との間は,通常ワードプロセッサのファイルかテキストファイ ルをやりとりする.著者(木本)はLaTeXで組版してPDFにしたものを渡すこと が多いが,例外的であろう.最終稿までには,組版した後のゲラを校正者や執 筆者が修正して反映させる.現在ではほぼInDesignやQuakXPressなどのDTPソフ トを用いており,最終稿のデータが印刷所に渡され製本される.DTPになる前は, 印刷所で活字を組んでいたため,最終稿の情報は印刷所がすべて管理している 状態であったらしい.現在でも,執筆者に最終稿のデータが自動的に戻ること は多くなく,出版社に要求して手に入れても組版ソフトであるため,執筆者が 再度手を加えるのが難しいという問題がある.
図のように中間フォーマットを介在することにより,DTPソフトが中間フォーマッ トを出力し,中間フォーマットからの変換ソフトを経由して,流通フォーマッ ト(EPUB, AZW, PDF, HTMLなど)になるという流れである.
一般的な既存のワークフローと比較すると,紙の本における印刷所と取次が,フォーマット変換と 販売のための通信キャリアに置き換わっているのが分かる.電子書籍のアライ アンスにおいて,印刷所,取次,通信キャリアが提携しているのは,この構図 から考えると自然なことだと言える.
この方式では,配信フォーマットが端末ごとに異なることを想定しており, DRMも端末ごとに異なる前提であると推測される.この場合,異なる端末を持つ 知人や家族間での書籍の貸し借りなどが困難になる.また,例えばEPUBのよ うなリフローを前提としたフォーマットで,雑誌などのページ単位のレイアウ トが固定したコンテンツを実現しようとすると,配信フォーマットごとの細か な最適化が結局必要になることが容易に予測できる.
更に報告書では,国会図書館への納本制度と合わせて電子書籍のアーカイブに ついて言及しているが,納本のためのフォーマットと中間フォーマットとの関 係については触れていない.
なお,EPUBは中間フォーマットと配信フォーマットの区別はないため,執筆者 なり編集者なりが直接EPUBをオーサリングするようになれば,このような複雑 な変換処理をを考える必要はない.
また流通プラットフォームについては,オープンなプロジェクトの事例として, Internet Archiveを設立したBrewster Kahleによる,BookServer[4]を挙げてお く.
書き手の立場からは,読者からのフィードバックが直接的,かつ構造化された 状態で受け取れるという期待がある.ただし,これを利点とするか欠点とする かは,書き手次第であろう.
電子書籍にメモ(アノテーション)をつけて共有するためには,書籍内の特定の 部分を一意に識別する識別子(URI)を決める必要がある.このURIは同時に,電 子書籍のIDも兼ねることになる.URIが付与された電子書籍は,インターネット 上に「出版」されたことになる.
他のコンテンツとの相互参照がオンライン上で可能になった書籍は,通常のウェ ブコンテンツとの区別がつかない.インターネットの情報が,リンクをたどる ことで広範囲の情報にすぐにアクセスできる特徴を持つとすれば,書籍はむし ろ一度に見える範囲を限定することでパッケージとして成立している特徴があ る.これらを踏まえつつ,何をもって「書籍」とするかの定義から議論する必 要がある.
インターネットが一般利用者に普及し始めた1995年頃に,まったく同じ議論が 交わされた.曰く,「ネットを使えば誰もが情報発信できる」「同時に無益な 情報や,虚偽の情報が大量に発生する」「情報を取捨選択する技術が必要であ る」
同じことが電子書籍でも繰り替えされているにすぎない.情報技術の研究成果 は,既にこれらの課題に立ち向かう力を持っている.志ある書き手は,今すぐ にでも執筆を始めればよい.そうやって生み出される電子書籍の数々は,品質 はどうあれ,絶版になることもなければ裁断されることもなく,情報の蓄積と して残り,技術のフィルタを通して読者の手に届くであろう.
一部では,日本の出版文化の特殊性を守るというお題目が叫ばれている.書籍 にせよ出版にせよ,新しい形態が加わろうとしている中で,何を守り何を変え ていくのかを,情報技術に携わる者はきちんと見極めて,健全な仕組みを作り 上げていく必要があると考えている.