告知など
- 「勇者彼女がトイレから出てきません。」
- 彼女がうちのアパートに来たかと思ったらトイレに入って出てこなくて、 何をしているかというと、異世界で勇者をしている話。
- 「ダウン症があるとかないとかどうでもいい、誇りがあればいい。」
- そろそろ子育てエッセイなどというものを書いてみようかと思った次第。
- 「小説生成システム開発計画 - プロジェクトNUE」
- 計算機に小説、いや、使い物になる文章を作らせてみようという試みを、 勉強しながらやってます。
2017-01-01 [Sun]
▼ あけましておめでとうございます。
2017年になりました。特に何もありません。何を頑張ろうというものがあるわけでもない一方で、基本的に全力でやっていないと死んでしまう生き物でもあり、悶々としたどっちつかずの日々が続いています。2016年はそんな感じの一年でしたが、2017年になって、だから何を打破しようなどという決意ができるわけでもなく。一年の計は元旦にありと申しますが、ここから一年のことなんか、分からんよ(クワトロ風)というのが正直なところです。
息子がもう少し落ち着いてくれると、色々と助かるのですが、5歳くらいから小学校中学年くらいまでは、ダウン症の男の子の中でも元気なタイプの子は苦労が多いと、主治医の先生が言っていたと妻から聞いてもおり、難しいのぉと頭を悩ませております。
それはそれとして、GeForce GTX 1050 Ti のボードを一枚買ってみましてね。
Linux用ドライバの最新版はGTX1050系に対応している。
Chainerの最新版はCUDA 8.0に対応している。
ということで、GTX 1050 Ti + CUDA 8.0 + Chainer on Ubuntu 16.04LTSがさくっと環境作れるんじゃないかと思ったのですが、まだちゃんとできていません。
本来、一番簡単な方法は、 https://developer.nvidia.com/cuda-downloads からOSなどを選び、deb(network)をダウンロードして、dpkg -iして、apt-get updateしてapt-get install cudaなのですが、これだと一世代前のドライバが入ってしまい、1050Tiは認識されません。
そこで、ドライバのPPAを追加して、最新ドライバをまずインストールします。
# add-apt-repository ppa:graphics-drivers/ppa
# apt-get update
# apt-get install nvidia-375
CUDA 8.0は、runfile(local)をダウンロードしてインストールします。
cuDNNもインストールするけれど、そこの手順は割愛。
そしてchainerをインストールします。
(PATHとLD_LIBRARY_PATHを適宜設定)
# env CUDA_PATH=/usr/local/cuda pip install chainer
# apt-get install --reinstall nvidia-375
これでいけると思うのだけれど、
・nvidia-smiでデバイスは認識している
・CUDAのサンプルアプリのmakeは完了する
・CUDAのサンプルアプリを実行すると、デバイスが見つからない
・Chainerは、from chainer import cuda しても、cuda.cupyを使おうとすると、そんなのはないと言われる
という状況で、
・CUDAがデバイスを認識できていないっぽい
・Chainerはインストーラの時点でCUDAの存在を認識できていないっぽい
という感じです。どうせいじっている時間もないので、待てはよい気もするけれど、GeForce GTX750Tiあたりの枯れたボードを一枚買って試した方がよさげな気もしています。
というか、インストール手順のメモがネットに沢山転がっているんだけれど、この人たちは動作確認までやっているのだろうかという疑問があります。
2017-01-09 [Mon]
▼ 勉強をしたくてできずに死んでいったひとのこと
今更になって思い出すことがある。祖母の兄のことだ。祖母の兄は何人もいて、どの人のことなのかよく分からなくなっているのだが、みんな優秀だったとは聞かされている。
そして、兄のうちの何人かは若くして亡くなっていることも聞いている。
勉強をしたい、勉強をしたいと言いながら死んでしまったと、何度も聞かされた。病死だったか、戦死だったか、そもそも亡くなった兄は一人なのか二人なのか、記憶が曖昧だが、今になって考えるとこの話は僕の物の考え方に強く影響を与えているような気がしてならない。この話を聞かされた小学生当時は、勉強しなさいってのを遠回しに言われているのだと思っていたのだが。
すなわち、全力でやりたいことがあったのに、不本意な原因でそれができずに死んでいった人の物語だ。
今の僕は全力でやりたいことがあるのにその全力が出せない(子供のことや自分の健康のことなどから)ことが本当につらいのだけれど、これはもしかして幼い頃に言われてきたことの呪縛なんじゃないかという気が、ふとしたのだ。
だけどそれを恨むつもりはない。
世の中には全力を出したいと思うことを見つけられない人や、そもそも全力を出す行為自体ができない、あるいは発想の中にない人もいるので、全力を出す目標や出す方法論を知っている自分はむしろ幸せだとすら思っている。
ただ、全力を出して生きることが当然だと思って生きることは、現実的に疲れるしきついし困難も多いし壁も多い。それでも僕はそういう生き方しか分からないし、更に不器用なので正面突破しようとして壁にぶつかって心が折れそうになることも多い。
それなのに「こういう生き方しかできないし」と思ってしまうのは、高倉健に憧れているわけではなく、幼少時の呪縛と、その後の人生で見てきた、全力で生きてその志半ばで亡くなった友人知人先輩の影があるように思う。
徴兵されて戦争で死ぬこともなく、昔よりは病気で死ぬことも減っているなかで、全力で生きる機会があるのなら、そこで全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思う。
生きていて、全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思うのだ。
その気持ちを駆動しているのが呪縛であるのなら、その程度のものは背負ってやろうじゃないかとも思う。