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2017-07-04 [Tue]

社会性の皮

色々小説などを読みながら考えた。

僕が持つ社会性とか常識的な生活とかってのは、実は空想の世界に近いところにある薄いレイヤーみたいな薄皮みたいなものなんじゃないだろうか。

自分の実体は空疎に近い何かで、そこに辛うじて薄皮がかぶさっているだけなんじゃないだろうか。

そのレイヤーは、しかし空想世界側にあるので、たとえば空想世界を小説のような形で具現化しようとするときには、ちゃんとレイヤーとしてかぶさってきて、社会性があるようなアウトプットになる。

でもそういう形でのアウトプットにならない、普段の生活の場合、薄皮のない空疎な自分をそのままみせざるを得ない。でも空疎なので、別にそれを見せることに何の感慨もないと言えばない。

こんなことを考えたのは、先日同窓会に行って、みんながあまりに普通に世間話をしていることに衝撃を受けたからかもしれない。他愛もない普通の話をするというのが、どうも僕はできないようだ。

それは欠陥なのかもしれないし、そういう仕様なのかもしれないし、少なくとも奥さんとは普通に話ができるので、それだけで生活する上で用は足りるから気にする必要のないことなのかもしれない。

でもまあ、みんなすごいなあえらいなあとは思ったのだ。

そう考えた時に、自分の社交性とか社会性とか、そういうものが当たり前にある日常というのは、ひどく脆弱で薄いフィルムのような形をしているイメージが浮かんだわけだな。

多分このイメージはそんなに間違っていない気がする。


2017-07-05 [Wed]

社会性の構築

エレベータに乗りながら考えた。

前の人の残り香らしきタバコの匂いがする。単純に気持ち悪い。しかし、それに気づき記述してみるというのは、ひとつの観察である。

思うに、僕の社会とのインタフェースは、ひたすら観察を積み上げることで作り上げているのではないか。

そうだとすると、観察する余裕、観察を積み上げて演繹する余裕がなくなると、社会とのインタフェース構築も破綻するのではないか。

そしていま、破綻しかけているのではないか。少なくとも新たな観察結果を消化する余裕は持てていないのではないか。

とはいえ、破綻して困るかというと日常生活は現状維持をすればいいだけなので、別に困らない。

ただ、社会の観察が広がらないのは、どうなのか、とは思う。

「世の中というモノ」にたいする物の見方というのが固定化してしまうのは、よろしくないと思う。とくに、そうなりやすい年齢に既に差し掛かっているわけで。

年をとると体力が下がることもあり、どんどん楽をするようになり、どこかで考えることをやめてしまう危険性がある。その時のことを想像すると、ものすごい恐怖に襲われる。

僕は簡単に感情を停止させることができる。その上考えることまで停止してしまったら、どうすればよいのだろう。

ああ、中二病っぽい。いや、中二病っぽさが残っているうちは、まだ大丈夫な気もする。

中二病と言えば。

Kindleでお試しセールをやっていて、きまぐれ☆オレンジロードの1巻と2巻が無料で読めたので読んでみた。驚いたのが、あいつら中学生っていう設定なのな。中学生って考えると、ものすごく大人びた設定だったんだなと思う。昭和の中学生、すげーな。

70年代80年代前半くらいの頃、ロボットアニメの主人公=パイロットは高校生くらいの年代だった。ガンダムでアムロが16歳という当時としては幼い設定だったんだけれど、それ以降、おおよそ高校生以上だった。一気に低年齢化したのは、銀河漂流バイファムだと記憶している。主人公ロディ・シャッフルは13歳だったか14歳だったか。当時自分は11歳か12歳で、ロボットアニメのパイロットの年齢に手が届くようなったと感じた。

実はこの時期は3年B組金八先生の時代でもあり、中学校が荒れていた時代でもあった。

それもあって、世間は中学生は小さな大人という扱いをしていたようにも思う。

話が脱線したが、じゃあ中学生がいつからただのガキに戻ったのかというと、やっぱりエヴァンゲリオンなのかなあ。


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