告知など
- 「勇者彼女がトイレから出てきません。」
- 彼女がうちのアパートに来たかと思ったらトイレに入って出てこなくて、 何をしているかというと、異世界で勇者をしている話。
- 「ダウン症があるとかないとかどうでもいい、誇りがあればいい。」
- そろそろ子育てエッセイなどというものを書いてみようかと思った次第。
- 「小説生成システム開発計画 - プロジェクトNUE」
- 計算機に小説、いや、使い物になる文章を作らせてみようという試みを、 勉強しながらやってます。
2016-08-03 [Wed]
▼ 恐ろしいことに八月
八月ですよ。夏ですよ。もうちょっと余裕を持った生活をしたいです。
先日、半年ぶりくらいにジムに行きました。例によって黙々と自転車こいだり、早歩きしたりしました。
ウォークマン持っていって、久しぶりに林原めぐみのアルバム聞きながら運動したんですわ。
林原めぐみと言えば、丁度僕が大学生から大学院生の時期に、人気うなぎ上りでして、当時アルバムも全部買ってました。
あの時期、声優が歌手的あるいはアイドル的活動を広げていく中で、それに対する批判もそれなりにあったように記憶していて、林原めぐみはというと、実力で、しかし軽やかに、道を切り開いていき、その姿がファンにはとても頼もしく思え、輝いて見えていました。
当時の曲を聞きながら、ああそういえば僕はあの頃あの作品が好きだった、この作品が好きだった、こんな音楽が好きだった、こんな物を作っていた、なんてことを色々思い出しました。
そうだった、全力で好きだった。
じゃあ今では好きではないかというと、そんなことはない。
好きなことは好きなまま。
でも全力は使えない。
だからと言って、あきらめていいのかと。
いや、あきらめない。
「好きを貫け」という言葉を肯定し続けてきた以上、それを翻す気はない。
やることが増えたら、それを「好き」の対象に入れてしまって、好きなことを増やせばいい。
増えた好きなことを、改めて全力でやればいい。
もし仮に自分が好きを貫くことを邪魔する要因があるのなら、全力で戦えばいい。
楽ではないかもしれないが、シンプルなことだ。
それだけのことだ。
2016-08-04 [Thu]
▼ NEDOのワークショップに行ってきました
「次世代人工知能技術社会実装ビジョンワークショップ」
http://www.nedo.go.jp/events/NA_100014.html
これな。
NEDOが発表した次世代人工知能技術社会実装ビジョンに基づいて、前半は講演、後半はパネルディスカッション。
当初思っていたより、面白かった。途中から非常に熱い内容でした。
内容についての詳細は省きますが、聞いていて思ったことだけ書きます。
上記のビジョンの人工知能及びその関連技術の進展は、縦軸に技術分野の分類が並び、横軸に年代が並びます。
縦軸について何かが足りないなあと思ったのですが、最後のほうで気づいた。「芸術」がない。
帰宅してから奥さんに「医療・福祉がない」という指摘も受けたのですが、そっちは厚労省だからねえ。
芸術も文科省・文化庁の管轄だから、とかいう理由かもしれない。
人工知能方面に関する僕の興味は、三点あります。
・自分が働かなくてもお金が入る仕組みを作りたい
・小説、あるいは物語の構造の解析を、人工知能を道具として行いたい。
・知的に遅れがある人たちの中にあるロジックを理解する手助けとして人工知能(あるいはその理論)を使いたい
で、上記の「芸術」がない問題と重ねると、クールジャパン的コンテンツ製作という技術分野があってもいいよねえと思ったのですよ。
たとえば小説だと学習素材になるテキストは、「小説家になろう」あたりに大量に転がっているわけですよ。
物語の自動生成に関する研究について、国内の論文をざっと調べたのですが、実はあんまりない。
あったとしても、作家としてのヒューリスティクスを導入する余地はなさそう。いやヒューリスティクスじゃないだろという声もあるかもしれないけど。
ということで、この方面に少し取り組んでみようかなと思った次第です。
僕等はワクワクすることをやりつづけるべきなのだよ。
2016-08-24 [Wed]
▼ 文章が書けない。
うん、書けないんだな。最近。いや、しばらく、ずっと。
このところ少しだけ元気になっていて、考え事をしながら頭の中で文章を作り出すことはできるようになったけれど、それをテキストとして書き起こすきっかけを作れない。
その少し前までは、文章を作り出すことができなかった。しりゃ仕事で文章を書くことはあるので、絞り出せば出せるくらいの腕はあるが、そもそも文章、言葉、語り、そういったものは、僕にとって自然と脳内から湧いて出るものだったので、ある日ふと、あれ「語り」が出てこないなと気づいた時、非常な危機を感じた。
ブログが止まっているのも、外向けの執筆活動がほとんどないのも、半分はそのためだ。
テキストを生み出すのに、そのための時間を捻出する必要なんかなかった。
気がつけば書いていた。
僕にとってはプログラムのテキストも、同じようにさらりと内側から出てくるものだった。内側から自然と出てきた上で、それを推敲しチューンナップする。そういうことをやっていた。
言葉もコードも出てこなくなったある時期、僕はどうしていいのか分からず、それも必死にそれらをひねり出していた。
今はちょっとまし。
言葉もコードも、それなりに出てくるようになった。しかしそれを形にする時間を作り出すのに苦労している。
本当は、そんなに苦労するほど時間がない生活を送っているわけではないんじゃないかという気もしている。
単に頭の中のとっちらかりかたが落ち着かず、時間の利用効率が落ちているだけなんじゃないかとも。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
ただ、僕がまだ完全にあきらめていない理由は、もし何かの理由でからっぽになることができて、目の前にまっさらな空間が広がるようなチャンスが巡ってきたら、再び動き出せる予感は自分の中で死んでいないからだ。
何かが、まだある。残っているという表現ではなく、空っぽになったらなったで、次を探しに行こうという意欲が、まだ枯れていない。
だから僕は、もう少しだけ、もがき苦しむ日々を続けようと思う。