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2016-09-09 [Fri]

シン・ゴジラと明倫館書店

シン・ゴジラを見た。開始数分後から、ずっと泣いていた。涙が止まらなかった。

なんだ?なんで僕は泣いているんだ?と思いながら、その理由は簡単に説明できるのだけれど、それを言語化することに躊躇しながら、それでもずっと泣いていた。

何故僕があの作品で泣いたのか?それは、「ああ、あそこには僕の居場所はもはやない」と思ったからだ。

首都の危機に自分の能力、知識、人脈、技術を駆使して戦う最前線に、僕の居場所はない。

官僚を目指したことはないし、そういう意味での「あそこ」ではないんだけれど、道を切り開く最前線集団の片隅にほんの少しだけでも身を置いていたという意識はあるし、「すわ鎌倉」的な、いざという時には俺たちが道を切り開くぜ、的な意識があったつもりでいた。

だけど今はもう、そんな意識もないし、そんな実力もない。

僕はもう、あそこには行けない。

神保町に、明倫館という古書店がある。自然科学系の専門書を扱った古書店だ。あそこの地下には技術系工学系の専門書が山のように並んでいる。歴史的に価値があるもの、あるいは歴史的にもはや価値がないもの(いやそういう本はあまり置いてないな)、山のように積んである。明倫館を訪れるたび、専門書に囲まれて、ああここにある知識を全部自分のものにできたらいいのに!いや、これなんかはちょっと専門からは外れるけれど、今から勉強したらなんとかなるんじゃないか?すばらしい!この世界の知識を可能な限り貪欲に手に入れたい!と思ったものだ。

先日久しぶりに(数年ぶりかもしれない)近くに用事があったので、明倫館に行ってみた。

地下の品揃えのうち、学問に近い部分はあまり変わっていなかった。コンピュータ系はほとんどなくなっていた。あまりにも技術の変化が激しすぎて、基礎的な内容以外は置かない方針にしたのかもしれない。

大量の専門書を前にして僕が思ったのは、「あ……ここにはもう、僕の居場所はないや……」であった。

学ぶ能力が劣化した人間に対して、本たちは冷酷だった。本に無視されているような感じがした。疎外感だ。

知識の山、学問の山、ここにもう僕はいてはいけないと言われている……言われている以前に、自分でいてはいけないと感じた。

僕にはここにいる資格がない。

だけど僕には別の生き方があるじゃないか!……なんていう前向きな内容には進まない。

一位じゃなくてもいいかもしれないけれど、学び、考え、最前線に立つ力を失った人間には、科学も技術も冷酷だし、そうあるべきだ。

だから僕は身を引くタイミングを探している。

二流三流で平気な顔をして生きていけるほど厚顔でもないし、老兵と化したFreeBSDのお父さんは、どこかに身を隠さなければならないのだ。雌伏するべき時なのだ。

ただ、胸の中の火が完全に消えているわけじゃあ、ないよ?


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